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スタッフブログ

   
2014/10/24  ショールームダイアリー 
Carlo Abarth
 

35年前の今日10月24日、波乱に満ちた一人の男の人生が幕を閉じました。

1908年11月15日にオーストリアのウィーンで彼は生まれました。

生を受けたのも、この世を去ったのも、さそり座の時期でした。

 

彼の名は、カルロ・アバルト。

私どもが取り扱っているブランド、アバルトの創始者です。

若き日の”カール”・アバルトです。

この頃はまだ、オーストリア人の名の「カール」を名乗っていました。

 

彼のキャリアのスタートは、バイクレースからでした。

自転車競技と機械工学に魅了され、バイクレースのメカニック・ライダーとして活動。

地元ウィーンのバイクメーカー、モト・トゥーン社(MT社)に

エンジニア・テストライダーとして就職したカールは、

初めてレースに出場したものの、なんと尊敬していた先輩に裏切られ

チームも追われてしまったそうです。

 

しかし、カールはその程度の事にくじけませんでした。

自ら購入したバイクで、直後に開催されたレースに単身エントリー。

これで初優勝をしてしまいます。

 

弱冠20歳のカールは、その走りを見ていた

当時ドイツ最強と言われたチームの一員に抜擢されます。

このままバイクレース界で活躍をしていたら、

今日「アバルト」は「ドゥカティ」にも負けない名前として、

バイク史に残っていたかも知れません。

 

ところが1930年。

22歳のカールはレースで生命の危機に瀕する様な大事故に逢ってしまいます。

これによって、医師からはバイクのレースを一切禁じられてしまうのです・・・。

ここでも、不屈の闘志がカルロを突き動かすのです。

「2輪でレースができないのなら、3輪で。」

 

彼は画期的なフレームを持つサイドカーを自らの手で作り上げて、

悲惨な事故から3年後の25歳の時、レース界に復活を果たしてしまいます。

そればかりか、当時のヨーロッパにおける最強のサイドカー・レーサーとしての

素晴らしい名声を獲得するに至りました。

 

しかしカールの活躍とは反対に、世相は戦争へと向かっていきます。

彼はドイツ・ファシズムの影響を受け、息苦しさの感じるオーストリアを出て、

まだ自由が残っているイタリアに拠点を移し、レース活動を行う様になりました。

 

イタリアでも大活躍を期待されて、また自身もそれを夢見ていたであろうカールですが、

またもや彼はレースで大事故に遭ってしまうのです。

それは昏睡状態が続く様な大ケガでした・・・。

 

カールが生死の狭間から目を覚ました時、すでに第二次世界大戦が勃発。

その時彼は腹を決めました。

カールの父親はイタリアからオーストリアに渡りましたが、

彼はその逆、イタリアに生活の居を構え、名前をイタリア読みの「カルロ」と改めます。

そしてここから、"カルロ"・アバルトとして、現代へと繋がるキャリアが始まります。

皆様はかつて存在したチシタリアというスポーツカーメーカーをご存じでしょうか。

第二次大戦前サッカー選手として、またレーサーとしても活躍した

企業家ピエロ・ドゥジオが大戦後に興したトリノのメーカーです。

 

チシタリアは高級スポーツカー、またレーシングカーを作り、

敗戦後のイタリアのモータースポーツ界の牽引役として

イタリア人の期待を一身に受けていたそうです。

 

トリノに住居を構えていたカルロは、親交のあったポルシェのエンジニアづてで

チシタリアにオブザーバーとして出向し、その手腕を振るう事となりました。

そこでカルロが自ら設計も手掛けたのが、こちらの写真のクルマ「204A」です。

クラシカルですが、今見てもとても美しいクルマです。

 

新しい道が見えたかの様なカルロに、まだ過酷な運命が立ちはだかります。

チシタリアが進めるF1プロジェクトは先進的・画期的な反面、

開発費用が掛かりすぎ、チシタリアの経営自体を圧迫してしまい、

ついに1948年末には、チシタリアは倒産してしまいます。

 

経営者のドゥジオは新天地を求めて、一人アルゼンチンに渡り、

残されたアバルト達チシタリアのスタッフのもとにあったのは、

計画が頓挫していた204スパイダー用の部品と、

抵当権が何重にもがんじがらめになった、本社工場だけ・・・

なぜ運命の歯車は、彼に安息を与えないのでしょうか。

 

しかし、めげる事など知らない彼には、しっかりと幸運の救世主が現れます。

それはチシタリアのワークスドライバー、グイド・スカリアリーニとその父親です。

 

裕福な家のスカリアリーニ親子は、オブザーバーという立場を越えて

チシタリアに惜しみない協力をしたカルロの素晴らしい技術力・経営能力、

そして人望の多さを高く評価し、資金を援助して

カルロをリーダーとする新しい会社を設立する様申し出たのです。

 

祖国オーストリアに戻る、はたまたドイツでポルシェの門を叩く・・・

そんな選択肢もきっとカルロの頭の中にはあったはずです。

しかしカルロは、チシタリアで苦楽を共にし、自分に命運を賭けてくれる

多くの大切な仲間たちを取り残す様な男ではありません。

 

カルロはイタリアに根付いたコンストラクターとなる事を決意し、1949年4月、

カルロ・アバルト40歳のこの時、トリノに「ABARTH&C」社を設立します。

頓挫していた204の製作を再開し、新たに「204A」として世に生み出し、

レース界に再び撃って出るのでした。

ちなみに「204A」の「A」は「ABARTH」の意味です。

こうしてレーシングカーを製作するコンストラクターとなったアバルト社ですが、

当時こういったメーカーはイタリアには数えきれない程あったそうで、

出来たばかりのアバルト社もそのうちの一社でしかなかったそうです。

 

しかし、他のコンストラクターと決定的に違ったのは、

世界の自動車史上でも初と言われる「チューニングカー」というジャンルを

確立した事にあります。

 

1950年代初頭から、エキゾーストシステムなどのチューニングパーツを生産し、

アバルト社のパーツはヨーロッパのみならず、北米でも大きな人気だったそうです。

そこでカルロは自慢のチューニングパーツを、フィアットの量産車に組み込んだ、

いわゆる「コンプリートカー」の生産を思いつき、その思惑通り

「アバルト社自らチューニングしたフィアット」は大ヒット。

上の写真は695SSですが、1963年デビューにも関わらず、

モータースポーツ界では70年代初頭まで大活躍をしていました。

 

カルロ以下、アバルト社のスタッフはアイディアがとても優れていました。

 

アバルト製コンプリートカーのレースにおける優秀な成績からイメージをアップさせ、

自社チューニングパーツのPRに活用。

 

同じ様に、1960年代に流行していたという、最高速記録にも度々チャレンジし、

その度世界記録を更新して、自社の技術力をアピール。

 

または、レーシングカーの名前に「フィアット・アバルト」という名前を付け、

世界各地のレースでの全ての優勝についてフィアット本社から

多額の賞金を得るシステムの考案・・・

 

アバルトは、本当にアイディアマンだったのです。

 

 

そしてアバルトは、社会現象まで起こしてしまいます。

当時のイタリアでは、こんなジョークが交わされていたそうです。

「コレは野ウサギかい?ノー!アバルト製の飼いウサギさ!」

強烈に濃くて苦いコーヒーを「アバルトカフェ」、

派手なメイク、ファッションでキメた女性を「アバルトガール」などなど。

「小さいけれど強烈」という代名詞にアバルトが使われていたのです。

それだけイタリアの大衆に大きなインパクトを与えたそうです。

 

1960年代にこうした黄金期を過ごしたアバルトでしたが、

モータースポーツ活動に力を注ぎ過ぎてしまい、70年代になるとその経営は傾き、

71年4月をもって、フィアット・グループの一員となります。

モータースポーツ専用車、市販車ベースのスペシャルバージョンの開発をする、

フィアットの一部門として活動していきます。

 

ところが10年後の1981年9月30日、ABARTH&C社は長い休眠期間に入り、

「アバルト」のブランドは歴史の表舞台から消えてしまうのです。

 

そして2007年。

フェラーリをはじめとする、フィアット・グループの各メーカー、

レーシングチームから優秀な技術者が集結して、アバルトを復活させます。

現在のアバルトにある「エッセエッセキット」の「エッセエッセ」とは、

「SS」のイタリア語読みです。それは「スーパー・スポーツ」の略です。

もちろん往年の名車、595SSと695SSへのオマージュとリスペクトです。

現在のラインナップにある「595」、限定車であった「695」などの車名も、

このかつてのラインナップに由来しています。

 

オマージュといえば、特別なエグゾーストシステム「レコード・モンツァ」は、

かつてカルロ・アバルトがモンツァサーキットにおいて最高速記録アタックをした時、

記録達成を記念して名付けらたザガート製の車両「レコルド・モンツァ」への

コチラもまたオマージュなんです。

 

こうして、現代のアバルトにもカルロの熱い精神が脈々と受け継がれています。

この熱きスピリットこそが、アバルトの毒なのです。

 

 

とまぁ長々と書いてしまいました。

え?フィアットやアルファロメオは関係ない?

いえいえ、そんなコトはナイんです。

フィアット傘下に入って初めて製作されたのがコチラ、

フィアット・アバルト124ラリーです。僕はこのクルマが大好きです☆

 

まぁフィアットは昔から一緒にやってるとしても、アルファロメオは?

ドイツツーリングカー選手権(DTM)で大活躍した155 V6 TI。

未だにファンが多いクルマで、僕もこのクルマが大好きです。

コレもマシンの開発・チーム運営を担っていたのは、アバルトのスタッフだったのです。

僕の大好きな、狂気のグループBマシン・LANCIA DELTA S4を始めとする、

「ラリーのランチア」を支えていたのも、実はアバルトでした。

 

先ほどお話しした71年にフィアット傘下に入り、81年に表舞台から消えてしまった後も、

実はフィアットグループのスポーツ部門を支えていたのはアバルトなのです。

カルロ・アバルトがいなくては、フィアットも、アルファロメオも、

今とは違うものになっていたでしょう。

 

僕も、そして皆様にも愛して頂いているクルマ達の影には、

直接的ではないにせよ、実はアバルトの影響も多大にあったのです。

 

どんな苦難でも諦めず、常に乗り越え、世間に衝撃を与え続けた男、

カルロ・アバルトを僕は尊敬していて、また彼の様に生きたいと思います。

没後40年近く経っても、貴方の精神は死んでいません。

僕は貴方自身の熱いヒストリーが大好きです。

この想いが天国でもスピードを求め続けているであろう貴方に届きます様に・・・。

 

 

 

などと、割とマジメにクルマネタをずらずら書いてしまいました(笑)

たまにはクルマ屋のブログらしいものをせんと・・・。

 

というワケで、本日は営業青山のマジメな記事でした~。

おそらく女性の読者の皆様にはほぼ無視されてる事でしょうね(笑)

 
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